1DAY-25HOURS デザイン・フォー・ライフ

from ousia@web 高嶺(Takane)によるデザイン・フォー・ライフ. テキストと写真で綴ります.

May 2008

http://rachmaninoff.gyao.jp/

最近映画も観られてないのですがラフマニノフは観ました。
予告編よりもずっとよかった、というかある意味苦しかった、他人事として感動するというのではなくて、始終共感してしまって。

幼少時のトラウマ、また望郷の念、単に出来事としてとらえられきれないほど実感としてわかる気がしてしまいます。ただ帰りたいと思うのとも違う、「本当にいる場所がなく、いるべき場所がみつからない焦り」価値観のギャップ、それら諸々の問題です。物質的に豊かなら満足できる人もいる一方で、存在根拠が満たされないと苦しいばかりの人もいます。創作や内面性で満たされているときだけ「生きている」と感じられるという実感・・・

幼少時ズヴェリに教えられるときの約束のシーンはどきっとさせられます。
「嘘をつかない」「自慢しない」「裏切らない」
セルゲイと教師両方の心情が解るだけに・・・
後に演奏会のシーンで客席に姿があったときは少しほっとしましたけれど・・
時代・世代の交代や継承、人から人へ継承されていくこと、そのもの・重みが感じられた。技術はそれを体験として持つものからインスピレーションと実体の技術として伝えられていくのでしょう、それゆえに技術の「生きたままの」継承がいかに重要か、重要だったかが解るというか・・・


いろいろあるのですが、1900初頭のロシアのアーティストたちは本当に大変だったとニジンスキーやバレエ・リュスの映画のときと同じような目線でみていました。
ニジンスキーが帰りたいと願ったロシアの大地はもうなく、帰れたとしてももうロシアはなくソ連しかなかったこと。二重の喪失が彼らから離れることはなかったと思う・・・苦しいです。

ロシアの、スラブの豊かさ厳しさ、美しさが旋律になって流れている。

欲をいえば、一楽章くらいずっと聴いていたいと思う。
映像のコラージュと音楽のまとまりでみせる部分があってもよかったかと思う。

他にもありますが、個人的な感傷が入ってしまいそうなので・・

5
パリオペラ座バレエ「ル・パルク」を観にいってきました。
マニュエル・ルグリとレティシア・プジョルが主演。
振付はアンジュラン・プレルジョカージュ。

プレルジョカージュの作品は観たことがなく、オペラ座、ルグリ、オーチャードでオケ付き、モーツァルトの楽曲、フライヤーが美しかったことなどで行きたいと思った作品ですが、一番の理由はオペラ座のクラシック・バレエやロマンティック・バレエは見ごたえがあるが、もっとも見ごたえがあるのは実はコンテンポラリー、と最近は思っているのです。

コンテンポラリーは、振付がモダン、世界観がモダンということとは全く違う。
振付は形式ではなく、表現そのものであり、世界観はダンサーの動きと肉体、舞台配置と音楽によって、「現象」となるのである。
上演され、観ている側は舞台をみているのではあるが、まったく異なった次元を目の当たりにする。おそらく、深層心理学や現代思想やシュルレアリズム文学が文字記述だけで表現できる(いやできないかもしれない不可能さ)をまさに身体で視覚的・体感的に表現する、というか「現象」させてしまうのだ・・・・

実はこのような光景ともいうべき舞台をみることはそれほどはない。
コンテンポラリーは振付を単にトレースするだけでは、それは人体の機械論をなぞっているにすぎない。
振付を身体の技術としてマスターし、それを解り、自分がどのような動きと表情によって世界を構築し、また不動と思われた概念をずらしていくかを「知っていなくては」ならないだろう。そういった意味で、パリオペラ座のコンテンポラリー作品は特別である。

ルグリはもちろん良かったが、レティシア・プジョルは素晴らしかった。
少年のようなというと語弊があるが、実存的心理状態にある「私という揺らぎ」そんな存在感だった。


沢山書きたいことはあるのだが、一幕から。
一幕の女性ソロは音楽性豊かで素晴らしかったと思う。拍手できないのが残念なほどモーツァルトの曲にあっていた。ふしぎとあっているというような言い方が当てはまる。
椅子が放射状に並ぶまでのパワーバランスが面白い。
面白いというのは、解説にあった「椅子取りゲームのようなユーモラスな動き」が理由ではない。一つの椅子がなくなる前は、秩序は調和して静の世界なのである。
世界のパワーバランスとは、「自分の場所」を必死に求めることで、大きく変動してしまう。残酷なほどに他を追い払い、自らの場所を確保しようとする。それをユーモアの中に取り入れてしまうのはさすがとしかいいようがない。
17世紀の衣装での動きは、衣装と動きが計算されていて、モダンで斬新なのに優雅である。衣装が美しくみえる動きなのだ。

そして、あれだけ固執した「椅子」「場」も時が過ぎれば、瓦礫のようにうち捨てられ、うずたかく積まれ、人々は去る。熱狂がうそのように。
そういったホッブス以来の西洋における「力」の捉え方を視覚的に表している。
このようにパ・ドゥ・ドゥ部分は男女の関係性(共に意識的な人間存在)が哀しみと愛と衝動として細やかに描かれるのだが、他の踊りは概ね概念表現に徹している。
とくに庭師たちの幕の最初に挿入されるパートは暗示的であり、世界観・自然観を示す。

まだまだ書きたいことはあるが、第3幕の、庭師達とレティシア・プジョルによるパートは言葉がみつからない。最初「眠っている女」の静寂がたしかにそこにあるのに、まったく違うものに見えてくる。肉体と精神が一元なものとしたらその関係性とは何なのか?肉体、生きた身体を物質化する振付(と呼んでよいのだろうか)は圧巻である。一言で言えない物事が、目の前に展開していたのだから。

東京バレエ@ベジャール追悼公演にいってきました。(5/11)
日曜しか休みじゃないと言うこともあったのですが、この日にしたのはギリシアの踊りのソロが中島周さん、井脇幸江さんが春の祭典の生贄、小出領子さんが出演するというキャスト発表も大きかった気がします。

勿論観たくて行った公演でしたが、思った以上に良かったです・・・
ベジャール作品は特に、エゴを超越して全体性に回帰する、または解体されて再生する力のダイナミズムのようなバレエ、舞踏が持つ原初の静と動があり、コンテンポラリーというよりもその外部に根ざしていくバレエだと思うのです。
その意味で、ダンスマガジン誌上で「ベジャールの後継者はいない」書かれていましたが、それは他のコンテンポラリーが「近代以降」というモダニズムの根ざしているのに対し、ベジャールは古代に根ざし、現代性を揺さぶる舞踏の場、人と動物、人と「神」の合間の失われた存在を招命するからなのかもしれません。
個性、感情、そういった「個」を超えた存在を体現すること。
しかしそれを可能にするのは、やはり圧倒的な「個」の力なのかもしれません。
自ら、舞踏と音楽の持つ本質に委ね、そこから未知の表現(世界観ともいえる)が現れるには、必要なものがある。
それが、よく出ている舞台だと思った。

ギリシアの踊りでは中島周さん。
パンフレットを見ると、ミシェル・ガスカールのこのギリシアの踊りを観たのがバレエの根本的なイメージであるとのこと・・・それを読んだときに納得できた。
ミシェル・ガスカールの踊りがイデアのように、在るのだと思った。
その一部が、跳躍や旋回に出ていると思えた舞台だった。

始まりは終わり、終わりは始まり。
フィナーレでは音楽が瓦解するように打楽器だけで打ち鳴らされ、旋律は泡のように融解して元の個に戻っていく。群舞は再びひとりひとりとなる。
地中海の浜に打ち寄せる波のうねり、そして砕けて消える水の泡のように。
それはまた「再生」を意味している。静かな力で満ちている。

火の鳥の木村さんは本当に力が抜けた跳躍で、特別な存在感、抜け出た存在に感じられた。パルチザンの奈良さんも良かったと思う。

そして「春の祭典」
井脇幸江さんの生贄。自らが生贄だと受容しながら自ら選定されることを受け容れている女の生贄。
対して男の生贄に選ばれるときの、不合理な悲劇性。同一なものたちから、無造作に選ばれて引き立てられていくときの残酷さ。その不可避で不合理な全体性の力に対しての叫びが感じられた、長瀬さんの生贄。井脇さんの生贄の超越性に全体が率いられるように感じられるほど、この二人の動きや表情はこの振付の意味するところを舞台上に出現させていたと思う。
男性群舞、女性群舞も、この選び取られ、悲劇と解りながらも生贄として差し出す抗いようのない「個」を駆り立てていく「力」のカオスをよく表していた。
カオスとは、進化に向かう、自己同一性からはみ出るときの境界としてのバランスだ。しかし一方で、同一なものから切り離され、別の種と交わることを「生贄」とする意味を同時に考えさせられた。それは恐らく、ベジャール自信も解説はしないであろうと思う。しかしなぜ、選び取られ、対となることが「生贄」なのか?
男/女はあきらかに異種として描かれている。
そして舞台に照らされる、光、それはおそらく、「モーセと一神教」(フロイト)でも述べられている「絶対者」としての光であり、外部としての光である。
抗いようもない世界存在に対して、畏れ、目覚め、そして、自らの共同体の為に、偶然に選び取られた(選ばれたというよりもそれはもっと偶然で残酷な意味を問われない選定である)犠牲者。そして犠牲者に倣う・・・

舞台を観る前は、振付と音楽に対して、それを超えた・または一体となったものがどのように、またはどの程度表されるのだろうと思っていたが・・・
舞台の上には、それが見事に再生されていた。
素晴らしかったと思う。

ベジャールは「終わり」があることを舞台上で表現することを可能とした振付家だ。
「終末」「死」抗えないものと、同じくらい強く宣言される「再生」。
ルネサンスの時代が常に死を認識しながら、死に対する哀れみ(優しさ)と「自ら再生する」力を自覚していたように。
そしてその価値を守ったひとがいたように。
「終末」「死」そして「再生」そのダイナミズムと回帰。
ベジャール自身が死した後に、その価値を理解し、守り、続けていくことができるかは、残った人たちが自覚的に残していくことが問われるだろう。