9375b0e2.gif今日ベルギー象徴派展へ行きました。
クノップフとデルヴィルの絵の前を行ったりきたり眺めていると、浅田彰がいました。というか、月曜午後という事もあり学芸員や警備員の数と客の数が一緒・・・位。ゆったり観られていいけど、こういう異端芸術の展示が減っているので、不安になります。bunkamuraが最後の砦という感じですものね。
デルヴィルの「エレウシス〜」の複製画を予約。

先日のベルリン追記

つまり日本人は「祈る」時に向かい合うのは先祖や共同体の意識が前提であって「個人」であることを許されていないのではないかという事。
檀家制度の仏教が限界があり、日常生活のほとんどのイベントに関わっていないというのはある意味あたりまえなのかもしれない。
無思想を許容してしまい、助長しているのは何か。
日本人が「無神論者」だというのはバタイユが「無神論者だ」というのとは全然違うことです。「無神論者」と明言すること=共同体との決別を意味する西欧では。

自分は宗教関連で面白く読めるのは中沢新一氏のテキストです。
私自身は無宗教ですけれどもね。(興味ある宗教文化は沢山ありますが)
妄信的な思考というのそもそも思想ではないと思います。
しかし「神」の否定から現代西洋哲学は始まったと考えると、それ以前の哲学は「神」(超越したもの)についての思想だった。
少なくとも「聖なるもの」の位置づけというものを意識した展示が多かった。

いずれにしても支配的な一神教がはびこる以前のシャーマニズムや古代性というのが「現代以降の行き先」のキーポイントなのだと思うのですがそれはまた別の機会に。